MMSS体験寄稿 第2冊目 「ラインズ〜線の文化史〜」

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さて、今回の雑記の内容ですが、前回から始めた「MMSS体験寄稿」という企画の2冊目。MMSS体験寄稿とは、MMSSを実際に体験してもらい、本にまつわる文章を寄稿してもらうというもの。

今回も絵描きである守屋李央さんに寄稿していただきました。

第2冊目はティム・インゴルドによる「ラインズ〜線の文化史〜」です。


すべてはうごめく線として

 「歩くこと、織ること、観察すること、歌うこと、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通している事は何か?それはこうしたすべてが何からのラインにそって進行するということである。」

 という書き出しが、言ってしまえばこの本の中で語られてゆく全てではあるが、この一文で何かピンとくるものがある人もいればいまいちピンとこない人もいるだろう。そもそも、ライン(線)を考えるとは一体どういうことなのだろうか。この本は、ティム・インゴルドという人類学者がありとあらゆるものを線という観点から捉え直してゆくその記録である。

 

 まず、ライン(線)といって、みなさんは何を思い浮かべるだろう。一度、ここでイメージしてみてほしい。空を見上げた時の飛行機雲、グラウンドにひかれた白線、家電のコード、雪道についたタイヤの跡、領土を分つ地図上の境目、山道に残った足跡、電線、何かの輪郭、神経、ペンを手に取って引いた線、道・・・・、挙げていったらキリがない。そう、ラインはどんな場所にも存在し、言ってしまえば世界は無数のラインで出来ている。そして、そのラインたちは、目に見えるものもあれば見えないもの(抽象的なもの)もある。

 インゴルドはラインを主に糸[thread](毛糸の玉や電気回路、ヴァイオリンの弦など人工的なものから植物の根や菌糸体や茎や新芽、また外部に体毛や羽毛や触覚やひげを備え、内部に血管と神経系を備えた動物の体もまた複雑に結び合った糸の束と捉えられるとする)と、軌跡[trace](連続的運動によって硬質な表面の中や上に残される、あらゆる恒久的な痕跡としている。紙の上に木炭で描かれるラインや、動物の移動によって残される通過形跡など)の2種類に区別する。

 また、その二つは異なったカテゴリーではなく相互に変形し合うもので、糸が軌跡になることもあればその逆もあると考える。糸が軌跡に変化するときには表面が生成され、反対に軌跡が糸に変化するときには表面が溶解する、と。

 第3の分類として切れ目・亀裂・折り目、それ以外にも幽霊のライン、分類できないラインというのも提示はされるが、主に論じられているのは糸と軌跡、またそれらと表面の関係性についてだ。

 糸が軌跡となって表面が生成される、このわかりやすいイメージとして挙げられるのは織り物だろう。また、テクストも織られるものであると、インゴルドは書いている。横書きに文字を書くことを想像してほしいのだが、そのとき文字の線が一定の幅を上下に振幅しながら縦方向に進行する移動を通じて、テクストの行は姿を現す。これは横糸が決められた縦糸の間を水平に移動しながら縦方向へ移動することによって縞模様が織り出されるのと同様だと、インゴルドは言う。

 話は少し脇道にそれるが、物語もひとつの織り物としてイメージすることできる。イギリスの作家であるブルース・チャトウィン(1949-1989)の有名な『パタゴニア』という作品があるが、日本語版の池澤夏樹氏のあと書きに、「彼自身の旅を縦糸とし、かつての人々の事績を横糸として編んだ布が『パタゴニア』である。」(河出文庫)という一文がある。目には見えぬ糸(ライン)で織られた布、それが時に物語であったり歴史であったりする。

  では反対に表面の溶解というのはどういうものか。これは少しイメージがつきづらいかもしれない。インゴルドはこの本の中で具体的に3つの例を挙げているがここで詳しく説明するにはどれも時間を食いすぎるので、今回は刺繍を想像してほしい。刺繍をするときにはまずまっさらな白い布があり、そこには縫わんとするデザインの下書き(それが実際に布の上には描かれておらず頭の中に留まっているイメージにせよ)がある。この下書きが表面に残されている軌跡で、その上を縫うことで軌跡は糸になり、私たちは布自体が透明になったかのように糸(刺繍されたもの)を眺める。これもひとつの表面の溶解だ。

 それから解剖学も、身体の表面を、それを構成する糸に分解するものと見ると、身体という表面を溶解させる。これは人間の身体に関わらず、動物や植物を対象としても同じことが言える。

 どうだろう、世界が無数のラインで成り立っている様を少しでも感じてもらえているだろうか。数えきれないラインの絡まりのそのただ中に、そして自らもラインの束として、私たちは生きているのである。

 そう意識すると、見下ろす自分の手や、窓の外で風に身を揺らしている草木の見え方もまた変わってくる。さまざまなラインを意識するということは、自分の生をひいてはこの世界をより立体的に複雑に捉えることに繋がると、私は思う。そしてそのさまざまなラインの絡まりの中に自分を含めたあらゆるものの存在があることを感じるとき、自らのあるいは他者の、あらゆるものの「生」がより生々しく浮かび上がってくるのだ。

 その生々しい「生」について、ラインの観点から触れられているのがこの本の第3章から第4章である。

 たとえば、家系図を思い浮かべていただきたい。細かい説明を端折って簡単に言ってしまえば、血縁のラインは糸でも軌跡でもない。成長することも流れることもない、ある運動が描いた1本のラインを切り分けて、それぞれの切片を点の中に巻き取り、ただ点と点を連結しただけのものである。

 例えば、A地点からB地点に飛行機で移動するとき、A→Bの移動はAという点とBという点を結ぶ線として地図上に表すことができる。AからBに移動する間にも、私たちは生きていて、空港を歩いたり、機内でトイレに立ったりしているが、移動を図に表すときその動きや生の衝動は全て点の中に巻き取られて見えなくなってしまう。

「世界の住人として、人間であろうとなかろうと、全ての生物は徒歩旅行者であり、徒歩旅行とは常に完成された存在をひとつの世界から別の世界へと輸送することではなく、自己刷新ないし生成の運動である。徒歩旅行者は世界の織物の一部として成長し、自らの運動を通じて永遠に織られ続ける世界に参与する」(P 184)。

 つまり、家系図などの系譜図に表されるのはあくまで点と点で連結された位置関係のみで、実質的な「生」のラインとは異なるわけだ。私たちの生というのは世界の「中」に息づいているものだが、家系図などは表面を横断するラインで、生のラインそのものではない。生のラインは点から点を連結するものではなく、始まりも終わりもなく常に進行している。

 ダーウィンの進化論では生のラインがまさしく点に閉じ込められてしまう。点と点を結ぶ線によって伝達されるのは遺伝的あるいは文化的な情報のみで、現実的な生のラインの連続性は失われてしまうのだ。それに対してインゴルドはアンリ・ベルクソン(1859-1941)を引き合いに出しながら、「生はいくつかの地点の内部に閉じ込められるものではなく、ラインに沿って展開されるものである」(P168)と書いている。非常に開放的な一文だと思う。ベルクソンにとってすべての存在は世界の中で固定化されたものではなく、自らの運動や活動のラインにそって具現化されるものとされる。

 本書の中で度々名前の上がるベルクソンはフランスの哲学者だが、彼の生命観はとても生き生きしたものだ。彼は生きているということは、すなわち異質的なものによって組織されている状態だと考えた。これはまさに先ほどに述べた解剖学的なラインの視点だ。身体の中では絶えず細胞が組み変わり、別の構造になり続ける(生成変化)状態、それが生きているということだと。

 このような動的で瑞々しい生命への視点は、のちにベルクソンからジル・ドゥルーズ(1925-1995)へと受け継がれてゆくものでもある。ドゥルーズは存在論(存在するとは何か)の観点から、全ては常に生成変化のそのただ中にあることを肯定的に主張した。

 そのドゥルーズがフェリックス・ガタリ(1930-1992、 フランスの精神分析家)との共著『千のプラトー』の中で掲げた、リゾームという概念がある。これは、植物学の用語で根茎の意だが、特権的な中心のなく多方向に「線」が絡まっていることを指す。ドゥルーズはそう言ったリゾーム的な関係や思考こそを望ましいものとする。やはりここでも生命(生きている状態)というのは点に閉じ込められるものではなく、リズミカルな線であることが言われるわけである。あらゆる線は絡まりながらも常に成長し、切断されたり、はたまたあらゆる線と接合され得るのだ。 

 自分自身がそれらの複雑な線のもつれの中に生きていると認識すること、その世界の複雑さを捉えるということを、私は全ての前提としてとても大事に思う。その複雑さを認め、あらゆるもつれのただ中を生きるというのは、ある意味非常に不安定で危なっかしい行為でもあるのだけれど。

このようにラインという観点からあらゆるものを見つめ直してゆくことは、自分自身の身体、精神、思考、そして世界の全てにまで繋がってゆく。私自身、この本が(ラインを考えるということが)あまりに多くのことと繋がりすぎるため、綺麗に要約することはもはや諦めすらしたが、ラインという観点からあらゆるものを捉えるという試みの面白さが少しでも伝われば幸いである。

 複雑に入り組んだ内容にもかかわらず、躍動感と爽快さをも備えた素晴らしい内容なので、願わくば、是非手に取ってもらえたら。

 読書という行為は歩くことと似ている。私たちは“徒歩旅行者”としてこの本で作者が切り開いた道を辿り、新しい何かと出会い、考え、そしてまた世界の網目の中に自らの道を切り開いて(ラインを伸ばして)ゆくのだ。正直、読むのに体力の要る本だとは思うけれど、是非気負わず気ままに歩いてみてほしい。

 思いも寄らなかった道が、目の前にひらけるかもしれない。

 

守屋 李央 / もの書き 絵描き

山梨県出身 創作活動と向き合うため今年の春から北海道・札幌に拠点を置く


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