MMSS体験寄稿 第1冊目 「MORANDI’S OBJECTS」

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さて、今回の雑記の内容ですが、標題にある通り「MMSS体験寄稿」という企画を始めたいと思います。MMSS体験寄稿とは、MMSSを実際に体験してもらい、本にまつわる文章を寄稿してもらうというもの。

今回、MMSSを体験してもらったのは絵描きである守屋李央さん。

5年以上前にインスタグラムの絵を見たときから私とのやりとりが始まり、守屋さんは少し前から文章も綴っていて、どれも素晴らしく今回の体験寄稿に参加いただきました。

そんな彼女の第1冊目は「MORANDI’S OBJECTS」です。



モチーフが語る画家の軌跡

「MORANDI’S OBJECTS」は、写真家であるジョエル・マイロウィッツが、画家ジョルジョ・モランディ(1890ー1964)が所有していた花瓶や缶その他オブジェなどの静物(スティルライフ)を1点ごとに写真に納めた写真集である。マイロウィッツは2015年の春にボローニャを訪れ、モランディが40年以上座っていたのと同じ場所に座り、モランディが絵を描いた時と同じように自然光のみでそれらの静物を撮影した。絵そのものや単にモランディが過ごした部屋を写した写真ではなく、かつて画家自身が見つめ繰り返し書き続けていた対象たちと1対1で対峙できるという、手にした者に貴重な機会を与えてくれる他にはない1冊だ。




 ジョルジョ・モランディはイタリア・ボローニャ生まれの画家で、20世紀前半に活動した画家である。彼は生涯のほとんどをボローニャの自宅と、グリッツァーナというボローニャ近郊に構えたアトリエで過ごした。二つの大戦があり、美術界でもさまざまな芸術運動が生まれては消えた、そんな目まぐるしい社会の中で、身を置く場所を変えず、初期でこそ前衛美術へ近づいたことはあったがその期間はごく限定的で、以後はひたすらに作業台に配置した静物や、風景ばかりを描き続けた。簡単に紹介するならばそんな画家である。

 

 私がモランディの絵を初めて見たのは2015年の東京ステーションギャラリーでの展覧会「終わりなき変奏」だった。彼の生の絵を目の前にするまでは、その絵は緊迫感のある美しい静けさに満ちたものであろうと思っていたのだがー、というか実際に緊迫感も静けさもありはしたのだが一方で想像とは裏腹に静けさとは真逆のせめぎ合う動きを感じもした。というか、むしろそちらの衝撃が強かった(ついでに、絵は本当に生物だということを、私は声を大にして言いたい)。穏やかな色彩の絵が並んだギャラリー内は空間としても統一感があり整って見えたが、その直後にそれがあくまでも表面的な印象でしかないことを思い知らされることになる。

 1対1で絵と対面すると、物たちが静かにそこにただバランスよく描かれているというよりは(もちろんそれらの配置や色彩に対しては並々ならぬ探求心を持っていたことは言うまでもないが)、部屋に入る自然光を含め完全にモランディのコントロール下に置かれた空間と、試行錯誤の末その時点ではそこしかないとされた場所に配置されるべくして配置された静物によって織り成される複雑な揺らぎがあった。もはや危うさすらあるギリギリのところで成立したその画面には、彼の絵からは一見すると連想されにくい「過剰」という言葉を私に思い起こさせもした。過剰なのに過剰でない。相反するが、同居する。なにこれ、ものすごく攻めている・・・。正直あらかじめ自分の中にあった勝手なイメージのせいで、そのギャップに混乱すら覚えて絵の前で訳のわからない笑いが込み上げてきた記憶がある。展覧会のタイトル「終わりなき変奏」、つまりまさにヴァリエーション(変奏)なのだが、静物画から風景画に至るまでその全てが、過剰なまでの反復と修正を繰り返す巨大な連作のようであった。その強度といったらものすごい。

 静けさの中に潜む、うごめく何か。せめぎあう物同士あるいは物と背景。絵自体が何か明確な主張をする訳ではないが、果てしない時間をかけて構築しては解体し、そして描くというその気の遠くなるような作業の繰り返しの中で生み出された作品群の奥には、画家自身の葛藤や世の中とは一定の距離を意図的に保った抵抗が見え隠れしているようにも感じられた。いずれにせよ、描くものを限定し、確固たるスタイルを確立することで、彼は無限の可能性の中に生きることができたのだと思う。

 彼を知る者なら、彼の絵を見ればすぐにモランディとわかるだろう。どうしたってモランディ的だからだ。それも確かに画家自身の意識的な狙いのひとつではあるかもしれない。しかし、確立された表面的なスタイルのその奥に潜む何かを絵の前に立って見出したとき、私たちは彼の絵を本当の意味で見ることができるのではないかと思う。よく言われる「静寂」だとかそういう言葉のみでモランディの絵を形容するはあまりにも勿体無い気がするのである。

(余談だが、自身で完全にコントロールできる空間を設定し舞台を限定して、その中で繰り返し反復・修正し追求していく、という姿勢、モランディに引けを取らないほどの精神性と作品の完成度の高さで、私が思い出す人物がひとりだけいる。日本の映画監督、小津安二郎である。私個人の中でこの2人の人物は関係を持たざるを得ない。今回の書籍とは関係ないので詳細は割愛するけれども、機会があれば是非に。)





 そういう意味では、この「MORANDI’S OBJECTS」は私たちに贅沢な経験を与えてくれる。彼が作業していた空間に腰掛けることは叶わなくとも、モランディの所有していた静物を1点1点まじまじと穴の開くほど好きなだけ見つめることができるのだから。

 しかしながら、画家の描いた対象物を写真家が写真に収めることで、良くも悪くもそこに映るもの・私たちが見ることができるものはモランディが絵を描く前に反応した単なる「要素」に過ぎない。過ぎないと言ってしまうと大したことがないように聞こえてしまうかもしれないが、あくまでもそれはモランディの絵を見るという前提を踏まえるからである。ある画家の「要素」にこんなにも贅沢に触れられるという点では素晴らしい本であるし、その試みが書籍という形で残されているというのは非常に有り難いことだ。






 モランディは光沢のあるモチーフが嫌いで、自分の表現したい色味や構図を実現させるために、瓶や缶を塗ったりペイントをほどこしたりしているが、そういった痕跡もこの写真集を見ると鮮明にわかる。この写真集の表紙になっている静物もおそらく筒の上に漏斗をのせて、つまり、自分から理想の形にもっていっているものと思われる。作業台の上に描かれた重なる無数の円は静物の配置を記した跡。彼が理想を追求していく中で対象物の埃を払わずに、むしろ埃による効果を必要としてその埃まで描いたという話はよく知られているが、それを踏まえて埃のあるものはそのまま撮影されている。それこそモランディの絵のごとく、静かに佇んで写真に収められた静物たちもよくよく眺めると静かどころか非常に雄弁で面白い。画家本人にとってはもしかしたら不本意なことかもしれないが・・・。モランディという画家が限界を知ることなく挑み続けたその足跡を見ることができる。





 シンプルな装丁も写真のプリントも美しい。モランディという画家を知らない人には彼と出会う入り口に、彼の絵を知っている人にも余すことなく堪能いただきたい一冊。

 是非手に取ってみてほしい。

 

守屋 李央 / もの書き 絵描き

山梨県出身 創作活動と向き合うため今年の春から北海道・札幌に拠点を置く


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